感覚を便利さが超えるとき


唐突ですけど、「輪行」って、どういう意味でしょう。
りんこう。自転車を伴って公共交通機関を利用すること。
多くの場合、自転車を分解したりたたんだりして専用の袋に収納する必要がある。
という感じですよね。


白状しますと、私は輪行という語をこのような意に用いることに少し違和感があるんです。


山へ行くことを山行(さんこう)といい、釣りへ行くことを釣行(ちょうこう)という。
同様に、自転車で行くことそれ自体を輪行(りんこう)という、のではないかと予て思ってました。原義は、そのようだったのではないか。
つまり輪行とは、サイクリング、ツーリングなどと同義だったのではないか。
それがいつか、現在ひろく行われているような語義に転じたのではないか。


とすると、なぜ転化したのか、つらつら考えるに。
たとえば、自転車を分解したりたたんだりしたときに収納する袋が、公共交通機関を利用するときに必要です。
この袋をなんというか。自転車を入れるから自転車袋?でもいいんですけど、
自宅では使わなくて、サイクリングやツーリングのときには必要な装備のひとつだから、サイクリング袋、ツーリング袋。
このとき、サイクリングやツーリングと輪行が同義であったなら、輪行袋、といわれてもおかしくありません。
ここから、輪行袋を使用する状況、すなわち自転車を伴った公共交通機関利用を、輪行とよぶにいたったのではないか??


新しい語義が定着する過程の背景として。
サイクリングやツーリングという語がすでにあり、これをあえて輪行といいかえる要請は薄かった。
他方、自転車を伴って公共交通機関を使うことをさす適当な語がなかった。
ということも、転化を後押ししたことでしょう。


以上、まったくの仮説ですけど。
私の感覚では、輪行ということばは、使わずにすむなら使いたくないのです。でも便利だから、テキトーに使っちゃってますけどね。
使いたくないという感覚を便利さが超えるとき、言語の変化というものは加速されるのかもしれません。