記号の境界

言語記号において意味内容の境界を形成するのは認識であり価値基準であり文化であるのかもしれない。以下本文/


「おのひろきおんらいん」本日付「要約のありかた」にて、一昨日付拙稿「『はてなトラックバック』の使用例」について言及されています。
情報技術上のことはよくわからないものの、お考えに共通するところは多いように思いました。


ご指摘もいただいています。拙稿中「『はてな』の概要生成の話題をうけて。」という表現に関することと思います。

こぐさんにひとつ突っ込みを入れておくと,「miharuqのひとりごと」10 月 13 日付のコメント欄での話題は,「はてなダイアリー」の要約生成でなくて,「はてなアンテナ」での更新の概要の生成の話だと思います.

なるほどそのとおりです。厳密さを欠いた記述で失礼しました。


当該コメント欄の話題は「はてな」アンテナ更新の概要生成です。私の関心はむしろ「はてなトラックバックの概要生成にあったのです。
アンテナもトラックバック機械的引用による概要生成という点で共通するとの認識で、両者を「『はてな』の概要生成」と括って表現してしまったのでした。
牽強付会との謗りは免れませぬか。


他の人にとって異種のものが「私」にとって同種にみえることがあるし、その逆もあることでしょう。
ことほどさように、言語記号において意味内容の境界を形成するのは認識であり価値基準であり文化である、のかもしれません。