技巧とみえぬ技巧


新国立劇場バレエ公演「くるみ割り人形」全3幕
渡邊一正指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
12月23日(祝) 新国立劇場オペラ劇場


「胡桃割人形」を初めてみたのは一昨年、府中の森芸術劇場松山バレエ団
ひさしぶりに生で聴く管弦楽、耳なれた美しい楽曲、大掛かりな舞台装置、サービス精神旺盛とも思われるほどの演出。
クリスマス恒例、やれば当たる演目。忠臣蔵のようなものか。年末行事として来年もみようと思った。


翌年は東京国際フォーラムレニングラード国立バレエ
ドロッセルマイヤーの特異な演出。手足の長い踊り手たち。とりわけペルシャの舞いなどでは、どこが手首か肘かわからぬような妖艶さに魅了されたりした。
しかし管弦楽に拡声装置が用いられていたのが興ざめ。


そして今年。去年レニングラードをみたからもういいか、とも思ったけれど、あゆこさんが発売日に1時間以上電話をかけまくって切符を入手してくれた。
正直なところ、それほど大きな期待を抱かずに臨んだ。
開演前、桶溝をひやかしてから着席。1階中ほど、中央よりやや右。


思い思いに出されてた音が一瞬静まり、調音、暗転。指揮者入場。拍手。指揮棒の動きとともに軽快な序曲が始まる。
緞帳が開くとお馴染みの情景。雪の舞う街頭、ガス燈をともす童、着飾った訪問者たち。空間が正方形にみえることに気づく。
さらに幕が上がり、お屋敷の広間があらわれて息を呑んだ。舞台の奥行きの深さ!
舞台正面の空間の正方形の1辺の長さをそのまま奥に伸ばしたように見える。そして舞台の前縁からその1辺を手前に伸ばしたあたりに自分の席がある。踊り手の顔と同じ高さ。
バレエとは、このようにして鑑賞するものだったのか。


改めて見渡すと、客席全体が立方体をなし、その底面の中心からやや右あたりに自分がいるとわかった。舞台の情景と音と自分が一体になっているような気がする。
クリスマスを祝う広間の第1幕ではとくに、バレエをみているという気がしない。技巧がそれとみえず、劇の演出にとって必然のように感じられる。音楽とも自然に融け合っているようにみえる。


楽音がきわだっていることに気づいたのは、第2幕、鼠たちとの戦いの総奏でだった。
大音量でも音が濁らない。気をつけると、音源と反響が楽器群ごとにききわけられるような気がした。
中央左にバイオリン、ハープ2基、その外に木管など。右手はビオラ金管、打楽器など。席が中心からわずかに右にずれた位置のせいか、金管や打楽器の音は右前から左後へ飛んでいくような心持ちがする。
それにしても、鳴っている函の中でそれを聴いているようである。それに較べれば、どれほど高級な再生装置も、函に穴をあけて盗み聴きをしているようなものではないか。


第3幕になって、諸国情緒の顔見世など、少しはバレエらしくなってくる。特殊帝政露西亜中華思想の権化のようなものではあるが。
多彩な楽想、美しい楽曲、際立った音響。絢爛たる踊り。3年も続けてみてると、ああまた1年たったのかという思いがする。
バレエらしいとはいっても、バレエ固有の技術や意匠をみるわけではない。楽しめればいいという不純な鑑賞者かもしれない。
大団円で暗転、ベッドから起きて人形を抱くマーシャの姿に、延髄が震えたように感じた。