透徹した内省を託す 〜南博"elegy"

Elegy


こよなく美しい音。
美しい音というのはそこに存在する。しかしこの作品はそこに存在しているのではなさそうだ。
自立して存在するのではなく、聴き手のもつ何かにはたらきかけてそれを動かす。触媒のように。


ふと沈潜ということばが浮かんだ。
ライナーノーツを読んでみたら、奇しくも氏が同じことばを用いていた。「悲しみは沈潜する。」


悲しみも孤独も不条理も諦観も、向き合って味わい尽くしてこそ安寧や癒しが訪れる、
こうした思いの託された演奏は毒にもなりかねない、と氏はいう。透徹した内省。
聴き手が逃げるのか向かうのかを問われる。


透明感のあるピアノに、のびやかでつぶだちのよいベースが絡む。太鼓が控えめに引き締める。
弦楽の加わり方も自然で違和感がありません。
音楽の専門的なことはわからないし、他作を引き合いに出すのは適切でないかもしれないけれど、思い出したのは下掲2作。
ザ・ララバイ     シャドー・オブ・ビル・エヴァンス(紙ジャケット仕様)
Kenny Drew trio"the lullaby" Thomas Clausen trio"the shadows of Bill Evans"


"elegy"に託された内実はこれらと全く異なるのかもしれません。
音楽の要素、すなわち、あるいは「盛り上がる」ような要素をいったん捨象し、残るものをしかし音楽的方法で
究極まで昇華させるような過程を経てはじめて、"elegy"の世界が成立しうるような気がしました。


相方あゆこさんもいたく気に入ったようす。私の聴く音楽がほめられることはとても珍しいのですが。
秋の夜長に、葡萄酒に合いそうだって?
なるほど、そういう用いられかたをしても、とても上質な音楽です。ひろくお薦めします。


聴き手を選びません。しかし問われる。