方法の記憶


こりゃまた思わぬところに記号学の大家がいらっしゃいました
話者と言説をそれぞれシニフィアンシニフィエに類比させるとは大胆なる新説?


シニフィアンシニフィエの相関は恣意的であるというのがそれぞれの概念規定の基礎をなすというわけですね。
伝統的な方法論としては、話者も言説もそれぞれシーニュと措定することがやはり端緒となるか。


言語とは実体につけられる名札のようなものではない、実体は言語によって切り分けられて初めて存在する、というのが記号学の立脚点のひとつであったと。
普遍的真理の追究とかいった形而上学的方法に対する反定立からソシュール言語学は出発し、現代思想の底流となったというわけでした。


ぢつは「一般言語学講義」も「象徴交換と死」もつまみ読みしかしてござらぬkogでした。
ソシュールに関しては殆ど丸山学派を通じて読みちらかしたようなわけで。
そこから得たはずの方法が今の自分にどれほど残っているかはきわめて怪しげです。


書庫から丸山文献など掘り出して再読してみるとしますか。