社会への発信と私物感


発信された情報は、それが不特定多数に向けたものであれば、さまざまな受信者にさまざまに受け止められることは当然です。
これは伝統的な発信方法、たとえば投稿とか出版とか、あるいは報道取材によるものとかだけでなく、インターネット上の発信についても同様と思います。
ときには発信者の意図にそわない反応があらわれることもあるのでしょう。それは不可避です。


私が発信するのは、さまざまな反応があらわれることを期待してこそではないかと思っています。
反応を望まないなら、ヒミツの日記にでも書いていればよいわけですから。
あるいは、意図どおりの反応を返してくれそうな人に限定して発信すればよい。そのための手法は、いろいろあるのでしょう。


不特定多数の読者に向けて、多くの人が相対的に低いコストで発信できる。しかも当事者どうし互いに、適時の反応を期待しうる。
予期せぬ反応、異なる考え、自分の持っていないもの。これらに接することで自分が影響を受け変化する。他人や世の中にも影響を及ぼす。
これはインターネットの普及によって享受しうる便益のうち大きなもののひとつと思います。


日本人は自分のホームページに「私物感」や「我が家へようこそ」という意識を抱きがちである、との指摘があります。*1
これらが象徴するものの背景にあるのは、たとえば、
「世の中のみなさん、我がホームページへ来たれ。ようこそ。でもこれは私物であり私の土俵だから、私の思い通りに取り扱います。私がルールブックです。私の気に入るような反応を期待します。私の気にいらない人に我が家に来てほしくありません。」といった意識ではないかと想像します。


こうした意識は、インターネットの揺籃期など、ホームページを持つことが、限られた人のあたかも特権であったかのようなときには許容されたのかもしれません。しかし、インターネットに多くの人が参加し、社会を形成しているような現状では、互いに対等な関係をとり結ぶことの妨げになりかねないのではと思います。


ところで、自分にとって快い反応しか見たくないという気持ちは、誰にもあるものでしょうか。
あったとしてもそれは、いうなれば我侭の範疇に属することではないかという気がします。私は自分の我侭をあまり人目に晒したいとは思いません。


インターネットへの発信は社会への発信。
そのかぎりで、自分のホームページの内部も社会的空間であることを免れないし、私物として支配するのになじまない。
私物を扱うには、それにふさわしい方法によればよいのでしょう。
私は発信者としても受信者としても、そのように考えます。


以上、「おのひろきおんらいん」5月15日付「Web の私物感とソーシャルネットワーク」に共感するところを、自分のことばで書き下ろしました。


関連拙稿 3月24日付「公共的責任」