川らぬ想い

くいくいさんの”着の身着のまま気まぐれ”日記昨日付「呑川下りポタ」を拝読。


自転車で川を下ったり遡上したりっていうのは、なんかロマンがありますねえ。
まず思い起こされるのは、伝統の多摩川ロングライドとか。
そして、企画と下見までで未だ本番に至らない鶴見川源流ツアー。
そうそう、境川を遡上、尾根緑道などもまじえつつ、アイス工房ラッテをめざすなんてのも下見だけでしたっけ。
イスカンダル *1にたとえられるべきはむしろこうした下見倒れ企画そのものかもしれません。


都内でもいろいろなところに暗渠の緑道などあって、自転車で走るとたのしいですね。
そこで沿道の佇まいがふつうの道と異なるのは如何なる点において?
私もつぶさに観察したわけではないけれど、人はふつう、川に背を向けて住まうもの?
往来に面したところは表玄関、川は人の通らない裏。だから川が道になると、人々の暮らしの裏を通りぬけることになる。
川ではなく鉄道が道路になった場合についてこうした考察を白鳥和也氏の著作 *2で読んで、なるほどと思った次第です。


呑川流域ってなぜかご馳走がいろいろあったりして、サイクリングのテーマにとりあげられることが多いけふこのごろ。
いろんなお話を伺うと、なんだかたのしそうですね。


でも、これまで私の抱いていた呑川の印象は大きく異なります。
就職して最初の職場の裏手を流れてたのが呑川だったんです。
当時愛読した吉本隆明の詩によくあらわれる「運河」の心象風景が呑川そのものでした。
町工場の油のにおいとともに。いやあれは鉄の匂いだったのか。
'04/2/15付で初版に言及したすぐあと文庫が出たのですね。
春は鉄までが匂った (ちくま文庫) 小関智弘「春は鉄までが匂った」ちくま文庫版、筑摩書房、2004年。ISBN:4480039473


自転車で走ったら、呑川はまた新たな姿をあらわすことでしょう。一度行ってみるか〜

*1:それぞれ'04/5/30・'05/9/11・'04/5/29付。

*2:'05/8/22付。