永遠に喪われたのか


山本夏彦「完本 文語文」文芸春秋、2000年。ISBN:4163562303
文春文庫版、文芸春秋、2003年。ISBN:4167352168
完本 文語文 (文春文庫) 


「この本買ったか?おもしろそうだから、読みたいんだけど。」
新刊が出たとき、父にそう訊かれた。こうしたやりとりはめずらしいことではなかった。


山本夏彦って、なんだ、文春国粋右翼挙国一致体制翼賛文化人か。
「まあ、そのうち読むかもね」くらいの生返事をしたような気がする。


「青春の文語体」のあと、読んでみようかと思った。父との話を思いだした。新刊から3年を経て、文庫になっていた。
なるほど文春文化人である。日本語を損ねたもののひとつに岩波用語というのがあるそうだ。
私など自戒のために、「私の岩波物語」なんか読むべきですか、そうですか。(「最近見かける書き方」)


「完本」と題しても、体系的な文献ではない。既出の雑文を蒐めてある。半ばほどまで痛快に読み進めた。
しかし話題が明治文人の私的文学史に及ぶにつれ、偏屈翁という印象がどうにも拭い難くなってきた。


大正生まれの著者にして、白文は読めない、文語は書けないという。
著者十代の始めに、亡父が遺した日記、明治末期の新聞雑誌を耽読したのに、文語の生活はすでに自分のものではないという。
漢文素読で育った世代とともに文語は滅びたという。


著者はいまさら文語に戻れとは言わぬ、喪われたものを再び望んでも叶わぬという。
滅びかけているものの延命のために、著者はささやかな抵抗を試みているのか。
日本語をどう扱おうとしているのか。日本語をめぐる現状についてどのようにはたらきかけようとしているのか。よくわからない。
主体性如何、当事者意識云々などと問うたら、岩波用語など通じぬと返されるのだろうか。


著者は手練れの口語文遣いかもしれない。そこからも多くを学びうるかもしれない。
文語の滅亡を看取った者の口語とはこういうものか。
いや、内実を伴わなければ文体の妙も虚しというべきか。


じつは私が文語文法の復習を試みたのは、少しは文語を書ける嗜みを身につけたいと思ったからにほかならない。
多くの文法書は、古典を読むための手がかりを提供しようとしている。文語を書くことを想定したものは稀のようである。


文法を学んだとて、文語を書けるわけではないとわかった。
先人の後押しがなければ、文語が口をついて出ることはない。
暗誦するほどに古典漢籍に接する機会を私は多くもたなかった。


新刊から1年が経ったころ、父は亡くなった。
そのうち私が読むだろうと思ってか、父は本書を買わなかったようだ。書庫には見当たらなかった。
読んでたら何と言ったろう。