よくわからない

最近書評が少ないなあ。あんまりまともな本を読んでないのかな。


世はオリンピックでわきかえってます。そういえば前回シドニー大会を扱った文献の読後感など書いた記憶が。探したらありました。3年半ほど前の。
シドニー!
以下、かぜはるかさんの掲示板「かぜのたより」への投稿、#1656、'01.3.9.再掲。かぜさん、いつもお世話さまです。

村上春樹シドニー!」文芸春秋、2001年。ISBN:4163569405


雑事の傍ら漸く読了しました。


氏の著作を読むのは久しぶり。相変わらずの村上節を存分に堪能する。
村上節とは失礼乍ら私の先入観であろう。皮膚感覚のように共感できる言説。しかし、どこか切実に迫るものが稀薄である。 「ノルウェイの森」や「遠い太鼓」を読んだときに私の側でともに響いた切実さが、今は稀薄であるということか。
あるいは対象への興味の濃度の違いか。著作の質の問題ではなかろう。


書評のようにいえば、オリンピックの紀行を基本構成としながら、マラソン走者の内実をもうひとつの大きな主題として扱っているために、やや拡散した印象がある。
紀行では、オーストラリアの歴史や文化などが紹介される。まさに氏が切り取る現実である。主たる対象概念はpolitical correctnessであろうか。オリンピックそのものはメタファーととらえないかぎり退屈なものであるという視点は、もしかしたら誰もがわかっていながらそう考えるべきではないと思い込んでいるとすれば、やはりpolitically incorrectなのであろうか。
ラソン走者に関しては、本書の冒頭と掉尾に有森氏と犬伏氏の本人取材に基づく内面描写を据えている。これは運動競技に殆ど興味のなかった私には刮目に価するものであった。
運動競技を成り立たせるのは競技者の闘争心にほかならないという。私自身のことにひきつけていえば、怠惰を克服する動機の多くは静かな憤りのようなものであったように思ってきた。そしてそれは、生産効率を高めることはあってもあまり健康な風景ではないと思ってきた。この憤りは、著者のいう競技者が拠って立つところの闘争心と同じ種類のものなのであろうか。たとえば、高橋尚子氏を動かしているものにはもっと別のものがあるはずだ。私も別の動機によっても生産に向きあうことができるようになりたいと思う。ではどうするか。


以上、一読後、再参照なしの読後感ゆえ勘違いご容赦請う。


退屈きわまりないといわれるオリンピック。今回も私は報道には殆ど接しなかった。それでも、シドニーオリンピックから私が得た大きな収穫は、女子マラソンで日本の選手が優勝したことを知り、高橋尚子という名を知り、その取材録画を見て、運動競技もいいものかもしれないと感じ、では自転車でも買って乗ろうかという気になり、それを実現し、競技のために走るわけではまったくないが、3ヵ月で6㎏の減量*1を果たし、なお減量を継続しつつ、この掲示板にも仲間入りをさせていただいているということかもしれません。主宰かぜさんはじめ掲示板参加のみなさんにも改めて感謝したいと思います。

なんだかよくわかりませんね。この書評も、オリンピックというものも。

*1:引用者註・減量はこの後最大15kgに及んだ。しかし現在はその2/3を取り戻している。