植民者の扇情
承前。
アルザス人の母語がドイツ語に属するものだという指摘には、下掲書で初めて接したような気がします。
書庫を探したら初刷が出てきました。ソシュールを知ったのもこの本でだったかもしれません。
田中克彦「ことばと国家」岩波新書、岩波書店、初版1981年、現行版2003年。ISBN:4004201756
奇妙なことは、「最後の授業」は、まさに日本のアジア侵略のさなかに、「国語愛」の昂揚のための恰好の教材として用いられたということだ。その国語愛の宣揚者たちは、たとえば朝鮮人の「国語愛」には思いもよらなかったのである。しかしこの奇妙さは、言語的背景であるアルザスに朝鮮を、フランスに日本を入れかえれば一挙にして消え去るのである。日本のアメル先生にとって、朝鮮人は皇民であったのだから。(中略)
背景をよく考えてみると、「最後の授業」は、言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的扇情の一篇でしかない。
この文を収めた章「母語から国家語へ」の扉には次の引用。
国語とは、陸海軍をそなえた方言である。-マックス・ワインライヒ
本書を読んだ当時、言語や文化の相対ということについて、そしてそれを支配しようとする暴力過程について、改めて考える契機を得た気がしたものです。
言語や文化や民族や国家などに関して素朴で無邪気であるがゆえに自分が意図しないところで他者を傷つけることのないよういつも心せねばならないと思います。